2022/5/10
こんばんは
今日は少し重い話かもしれず、すみません。
ダチョウ倶楽部の上島さんが亡くなられました。
先程ネットニュースを見て知りました。
2020年の回顧
当初死因が明かされていなかったので嫌な予感がしました。
大好きだった三浦春馬さんと同じような感じがしたからです。
様々な記事を読んでいくにつれ、自然と涙が溢れました。
詳しいことは分かりませんが、一つ、改めて考えたことがあります。
それは「何一つ当たり前のことなど無いということ」。
尊敬するNBA選手コービー・ブライアントの時も、三浦春馬さんの時も同じでした。
2020年以降、この2年間強くそれを考えてきました。
そしてこれは、それ以降の自分の考えや生き方に少なからず影響を与えました。
これは春馬さんの時に思ったことなので、
上島さんがどうだったのかは分かりませんが
なんとなくこういう時、人は「引っ張られてしまった」のではないかと思うのです。
ひょっとしたら、この世ならざる何かに。
引っ張られるのはどういう時でしょうか。
絶望が招くもの
私の経験上、一番わかりやすいのは「絶望した時」。
そんな時、全てがどうでも良くなったり、どっちでも良くなったりします。
”どう生きていいのか”わからなくなる。
いずれにせよ、「幸せ」や「希望」や「優しさ」とは対局の感情にある時です。
私も”かつて経験した”ので覚えがあります。
そういう時期だったのか、刹那的にそうなったのかは問わずです。
そんな時、「どうでもいいならば」と、”なんだか良ろしくない彼等”に引っ張られるのではないでしょうか。
そんなふうに感じたんです。(オカルトではないですよー例え話ですよー笑)
「生きたい」と、強く希望を持ち、幸せの中、笑顔でいる人を引っ張るのはエネルギーも力もいりそうです。
だから、彼等が狙うのは”そういう人”ではないのではないか。
絶望し、もしくは、不幸、もしくは怒り、滅入り、そういった感情のものは「どっちでもいいが故に引き入れやすい」。
だから、”そういう人”のところに、ふっと現れ、ふっと手を引いてしまうような、そんな気がするのです。
これは恐ろしい想像、妄想にすぎないですが。
もしも、明日がなかったら。。。?
だとして、自分はどうすべきなのか?
これらのことを鑑みて、僕の中で今日、ふと繋がるものがありました。
それは「優しさ」について。
こないだの喜多川泰さんの「運転者」にも次のようなシーンがありました。
「不機嫌なものに運は訪れない。不機嫌なものは気づけない」
そして、次に読んだ「君と会えたから…」には、”明日がもしなくなったら?”ということについて書かれていました。
明るく、朗らかに、優しく、笑顔で、幸せに生きること。
”当たり前なことなどない”のです。
全てに感謝をする。
感謝できれば幸せになる。
感謝出来ることが幸せである。
そして、僕には「毎日を優しく生き続けることが、唯一後悔しない道」だと感じたのです。
後悔しないための、”唯一の道”
昨日、今日、今
優しくできなかったら、優しく生きれなかったら
それは「次の瞬間からの後悔に変わる」かもしれません。
”次の瞬間”が、”明日”が、保証されてる人などいないですもんね。
僕自身も、そして、優しく出来なかった目の前の人も。
努力を怠ったら、その分だけ、後悔の可能性が増えるかもしれない。
だから、「一瞬も後悔しない人生を生きるために」ぼくは”優しくありたい”と、いつも強く思うのかもしれません。
これは、「そう思いすぎると、生きづらくなる部分もある」のだとはもちろんわかってはいるのですが
それでも、自分が”優しく生きたい意味”、優しさにこだわる理由が、自分の中でわかった気がして、なんとなく納得できたのでした。
明日以降、また”優しくなれるよう”に、生きていきたいと思います。
”当たり前じゃない毎日”に僕が願うことは、「みんなが健康で幸せに毎日を生きてくれること」です。
ちょっと綺麗すぎるように聞こえるかもしれませんが。。。笑
それでも今日もこれからも祈り続けます。
今日も、明日も、みんなの毎日が幸せでありますように(^^)
P.S.
今日は勝手な解釈炸裂の少しばかりシリアスな話にお付き合いいただきありがとうございました!
また、上島さん、今まで本当にお疲れ様でした。
よくお休みください。
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